1人あたり年間800ポンドの大豆を消費しながら、豆腐を口にしたことがないアメリカ人

1人あたり年間800ポンドの大豆を消費しながら、豆腐を口にしたことがないアメリカ人

科学食品歴史

データソース:The Conversation

朝、スーパーに入って、何気なくドレッシングのボトルやクッキーの箱を手に取る。 パッケージ裏面の原材料名表示を見れば、大豆油や大豆レシチンの文字が至るところに並んでいる。

多くのアメリカ人は、生まれてから一度も豆腐を食べたことがなく、豆乳を一口も飲んだことがない。 しかし米農務省(USDA)のデータによると、2026年の全米の大豆収穫量は45.2億ブッシェルに達すると予測されている。 大豆1ブッシェルは約60ポンド(約27キログラム)で、換算すると全米で毎年約2700億ポンドもの大豆が収穫されていることになる。

これを全米3.3億人の人口で頭割りすると、1人あたり年間で約800ポンド(約360キログラム)もの大豆が配分される計算になる。 360キログラムといえば、小型乗用車のほぼ半分の重量に相当する。 もしそのまま粒の状態で直接口にするなら、国民全員が毎日1キログラム以上の乾燥大豆を食べ続けなければならない。 だが、大多数のアメリカ人は生の丸大豆など買ったことすらない。 これほど膨大な農作物は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。

1人あたり年間800ポンドの大豆が供給されながら、食卓には一粒も見当たらない

この認識のギャップは、食品産業による「不可視化」の技術に起因している。 食品加工工場は大豆を揚げ物用の食用油や、マヨネーズを滑らかにする乳化剤へと姿を変えさせる。 加工食品の原材料名リストにおいて、大豆は様々な分解生成物の形態をとって姿を隠している。 アイスクリームから缶詰スープ、乳児用粉ミルクから市販のパンに至るまで、その痕跡はスーパーの陳列棚の隅々にまで及んでいる。

食品ラベルに記載された大豆油と大豆レシチンの原材料表示 図:食品ラベルに記載された大豆油と大豆レシチンの原材料表示。出典:The Conversation / Super 1 Foods

大豆はもともと北米大陸の原産作物ではない。 およそ6,000年から9,000年前、中国北部で野生種から栽培化された。 紀元前1千年紀には、中国古代の文献に記された「五穀」の一角を占める主要作物となっていた。 1764年、イギリス人船員のサミュエル・ボーウェン(Samuel Bowen)が数粒の大豆の種子をジョージア州サバナへと持ち込んだ。 しかしその後の約150年間、アメリカにおいて大豆は農学者たちが観察する物珍しい植物や、家畜の飼料としての域を出なかった。

植物探検家がアメリカへ持ち帰り、ヘンリー・フォードの全豆宴会は記者に酷評される

転換期が訪れたのは20世紀初頭のことである。 1900年前後、米農務省の植物探検家フランク・マイヤー(Frank Meyer)が中国各地を巡り、数十種に及ぶ大豆の品種を収集した。 続いて農学者のチャールズ・パイパー(Charles Piper)とウィリアム・モース(William Morse)が試験農場でそれらの品種を栽培・選抜した。 彼らは生育や収量に優れた種子を全米各州の農業試験場へと配布した。

自動車王ヘンリー・フォード(Henry Ford)は、20世紀初頭のアメリカにおいて大豆の最大の推進者となった。 1933年の『フォーチュン』誌は、フォードが大豆に対して寄せる関心は「V8エンジンと同等である」と驚きをもって報じた。 1935年までに、フォードの工場で製造される自動車1台につき約1ブッシェルの大豆が消費されるようになっていた。 抽出された大豆油は自動車用の塗料(エナメル)に精製され、油を搾った後の大豆粕は初期のプラスチック部品の成形材料となった。 1941年、フォードは管状スチールフレームに大豆由来のプラスチックパネル14枚を装着した軽量な「大豆自動車(Soybean Car)」を公開した。

1946年のフォード社広告:大豆畑にかがみ込むヘンリー・フォード 図:1946年のフォード社広告:大豆畑にかがみ込むヘンリー・フォード。出典:The Conversation / The Henry Ford

大豆を国民の主食として定着させようと熱望したフォードは、1934年のシカゴ万国博覧会において、30人の記者を招待して「全豆昼食会」を開催した。 大豆スープから大豆パン、大豆アップルパイ、大豆コーヒーに至るまで、メニューの全コースが大豆で作られていた。

1934年のフォード全豆昼食会メニュー、全品に大豆を使用 図:1934年のフォード全豆昼食会メニュー、全品に大豆を使用。出典:The Conversation / The Henry Ford

しかし招待された記者たちの反応は芳しくなく、出された料理は到底口にできたものではないと散々に酷評された。 丸大豆をそのまま人々に食べさせようというフォードの試みは、手痛い挫折を味わうことになった。 豆そのものを普及させる直接的なアプローチは失敗に終わったが、工業的に成分を解体・抽出するという別のアプローチが、思いがけず巨大な市場を切り拓くことになった。

搾油機が豆を3つに分解し、工業原料が加工食品へ滑り込む

乾燥した大豆は、約36%のタンパク質と約20%の油脂を含んでいる。 1910年代に登場した工業的な搾油技術と化学溶剤抽出法が、この作物の運命を決定づけた。 食品加工会社は、大豆独特の青臭い風味や食感を消費者に押し付けることを避け、機械的・化学的処理によって大豆を3つの万能な工業原料へと分解した。

第1の原料は大豆レシチン(大豆油の精製過程で得られる乳化剤)である。 水と油を均一に結びつける働きを持つ。 チョコレートやパンの製造工程でわずかな大豆レシチンを加えるだけで、なめらかな食感を生み出し、油脂の分離を防ぐことができる。

第2の原料は水素添加大豆油(液体の大豆油に水素を付加して半固体状の油脂にしたもの)である。 これにより、クッキーや焼き菓子の賞味期限を大幅に延ばすことが可能になった。 安価で製造でき、豆臭さが完全に消えた硬化大豆油は、高価な動物性油脂に代わる食品業界の定番素材となった。

第3の原料は分離大豆タンパク(タンパク質含有率90%以上の純度の高い粉末)である。 水を加えることで、加工肉やシリアルの結着剤や増量剤として機能する。 この無味無臭の粉末は、プロテインバー、栄養ドリンク、缶詰スープなどに誰にも気づかれることなく添加されている。

これら3つの原料に解体された大豆は、極めて高いコストパフォーマンスとクセのない風味を獲得した。 食品メーカーは消費者にそれと悟られることなく、あらゆる加工食品の中に大豆成分を浸透させていった。

マーガリンがバターを駆逐、大豆油は30年で食用油市場の8割を掌握

第二次世界大戦が勃発すると、東南アジアなどからの油脂の輸入が完全に途絶えた。 アメリカの食品産業は国内産の大豆油へと舵を切らざるを得なくなった。 戦後、畜産業の爆発的な発展に伴って家畜飼料用の大豆粕(高タンパクミール)の需要が急増した。 膨大な大豆を圧搾する過程で、副産物として安価な大豆油が奔流のように生み出され、その新たな販路の開拓が急務となった。

食品メーカーはこの余剰大豆油に水素添加を行って安価なマーガリンやショートニングを製造し、乳製品バターよりも圧倒的に安い価格で市場を席巻した。 米農務省経済調査局の統計によると、アメリカ人の年間1人あたりバター消費量は、1942年の16.4ポンドから1972年には5.0ポンドへと激減した。 同じ期間に、代替品であるマーガリンの消費量は2.9ポンドから11.1ポンドへと跳ね上がった。

2008年までに、大豆油はアメリカ国内で年間消費される180億ポンドの食用油のうち、実に80%を占めるに至った。 飲食店のフライドポテト用の揚げ油から家庭のサラダドレッシングに至るまで、大豆油はアメリカの食生活を支える絶対的な基盤となったのである。

1934年のフォードの昼食会に参加したある記者は、数十年後にこう振り返っている。「あの日私たちが口にした料理からは、大豆がそのわずか数年後に数多くの人気食品の原料となり、その一部がこれほど美味しくなるなどとは到底予想できなかった。」

大豆油がジェットエンジンに注がれ、工業作物は一周回って工場へ帰還する

2026年を迎え、大豆の用途はさらなる進化の局面を迎えている。 2026年3月、米連邦政府は運輸部門における再生可能燃料の混合義務基準を引き上げた。 これにより、大量の国産大豆油がバイオディーゼルや持続可能な航空燃料(SAF)の精製ラインへと流れ始めている。

ネブラスカ州の大豆燃料バイオバス 図:ネブラスカ州の大豆燃料バイオバス。出典:The Conversation / 米国エネルギー省

90年以上前にヘンリー・フォードが構想した「農場と工場の融合」は、誰も予想しなかった形で現実のものとなった。 農地から生まれた作物は、国民の食卓を根本から作り変えただけでなく、今や乗用車、バス、ジェット旅客機のエンジンを動かす燃料として供給されている。

大豆の不可視化の歴史は、近代食品産業の持つ巨大な影響力を如実に物語っている。 農作物が目に見えない基礎原料へと解体されたとき、本来の味や形は消え去る。 そして食品産業は、消費者が全く気づかないうちに、一国の食生活の構造そのものを塗り替えてしまったのである。

参考リンク:

  • The Conversationの報道