「大脳皮質の9割をヒト神経細胞に置換」——難治性脳疾患に挑むマウス生体モデルの誕生

「大脳皮質の9割をヒト神経細胞に置換」——難治性脳疾患に挑むマウス生体モデルの誕生

科学健康脳オルガノイド

データソース:Science News

アルツハイマー病や脳性麻痺の患者を目の当たりにしたことがある人なら、誰しも疑問を抱くだろう。人類はこれほど多くの難病を克服してきたのに、なぜ脳疾患の解明と治療だけはこれほど歩みが遅いのか。

その最大の理由は、医学研究が直面し続けてきた構造的な壁にある。科学者が生きている人間の脳で直接新薬の実験を行うことは倫理的にも物理的にも不可能だ。一方で、実験室の培養皿で育てられた少数の細胞は、本物の脳が持つ複雑な血流や感覚刺激を欠いており、病態を再現するにはあまりにも単純すぎた。

2026年9月16日、国際的学術誌『Nature』に革新的な研究成果が掲載された。スタンフォード大学のセルジウ・パシュカ(Sergiu Pașca)教授が率いる研究チームは、遺伝子工学を駆使してマウスの脳の重要構造をほぼ半分切除し、その空洞にヒトの脳細胞を移植した。移植されたヒト細胞はわずか3カ月で生着しただけでなく、マウスの大脳皮質の90%以上を占めるまでに成長した。

移植後に成長したヒト神経細胞の顕微鏡画像 画像:移植後に成長したヒト神経細胞(緑、赤)が周囲のマウス脳組織(青)と接続を形成する蛍光顕微鏡写真。出典:Science News / S. Pasca lab, Stanford University

生体脳内に回路を敷く:培養皿では超えられなかった限界

脳の病理メカニズムを解明するため、医学界は十数年前に大きな一歩を踏み出した。2010年代初頭、オーストリアの研究チームがヒト多能性幹細胞から「脳オルガノイド」(試験管内で自己組織化する三次元のミニ脳組織)を培養することに成功した。米粒ほどの細胞塊が初歩的な神経構造を自発的に形成する様子は、神経科学界に大きな希望をもたらした。

しかし、培養皿の中のミニ脳はすぐに生物学的な限界に直面した。血管系が存在しないため組織深部へ十分な酸素と栄養を供給できず、他の感覚器官からのシグナル刺激も届かない。ヒトの脳細胞はある一定の段階まで育つと、それ以上の成熟を停止してしまうのだ。

神経細胞を真に生きた回路として機能させるため、パシュカ教授らは2022年に新たな試みを行った。新生児ラットの脳にヒト脳オルガノイドを移植したのである。ヒト細胞はラットの血管を取り込んで生き延びることに成功した。しかし、ラットの神経系はヒトよりもはるかに速く成熟してしまうため、ヒト細胞はラットの片側皮質の3割程度しか占めることができず、広範囲な回路網の形成には至らなかった。

試験管から生体動物へ進むためには、動物の頭蓋内に十分な物理的成長スペースを確保する必要があった。

マウスの脳にスペースを空ける:遺伝子改変で皮質の大半を切除

今回の実験において、スタンフォード大学のチームはさらに大胆な戦略に打って出た。遺伝子工学により、あらかじめ脳の一部を欠損させた特殊な実験用マウスを作製したのである。

このマウスは生まれつき、高次思考を司る大脳皮質(cerebral cortex)の大部分と、記憶の中枢である海馬(hippocampus)を欠いている。この2つの構造だけで全脳容積の約半分を占める。驚くべきことに、大脳の前半部を大きく欠きながらも、このマウスは基本的な生命活動を維持し、研究者が「驚くほど機能的」と評するほどの生存性を示した。

切り開かれた広大な空洞は、ヒト細胞にとって理想的な生体保育器となった。研究チームは健常ドナーの幹細胞から育てた脳オルガノイドを、このマウスの頭蓋内空間に精密に移植した。

合計29回行われた顕微手術のうち、25回で生着に成功。86%という高い手術成功率は、この生体移植手法の確かな安定性と再現性を物語っている。

神経回路の接続を示す顕微鏡画像 画像:同研究における神経結合の顕微鏡写真。出典:Science News / S. Pasca lab, Stanford University

皮質の90%がヒト細胞に:生体内で分化した希少な神経細胞

マウスの頭蓋内に移植されたヒト脳組織は、驚異的な増殖能を発揮した。その後の3カ月間で、移植組織の体積は約5倍にまで膨張した。

最終的に、ヒトの神経細胞はマウスの大脳皮質の90%以上の領域を埋め尽くした。ヒト細胞はマウスの血管系から栄養を取り込み、マウス本来の神経系とシナプスを介して信号伝達接続を確立。2つの異なる生物種の細胞が共生する、真のキメラ(chimera)個体が誕生した。

さらに研究者を驚かせたのは、生体の微小環境において、従来の培養皿では作製が極めて困難だった希少な神経細胞サブタイプへと自然に分化した点である。

人間の大脳皮質が持つ6層構造を完全に再現したわけではないものの、この組織は自発的な電気シグナルを発する生きた神経回路を構築した。ヒト細胞は試験管標本の限界を脱し、生体動物の体内を巡る機能的な回路となったのである。

脳性麻痺の損傷を再現:患者由来細胞が切り拓く創薬スクリーニング

モデルが確立されると、研究チームは直ちに疾患の病態再現実験に着手した。移植マウスを低酸素環境に置くことで、早産児などに起こる脳性麻痺(cerebral palsy)の病態を再現した。

低酸素負荷の後、マウス頭蓋内のヒト脳組織は臨床的な脳性麻痺と一致する特異的な細胞損傷パターンを示した。同時に、マウス自身にも歩行障害や四肢の協調運動不全が現れ、人間の患者に見られる身体症状が忠実に再現された。

この成果は、脳疾患の治療法開発にまったく新しい強力なツールを提供する。これまで実験用マウスで劇的な効果を示した新薬候補が、ヒトを対象とした臨床試験に進むと次々と失敗してきた。その最大の障壁は、マウスの脳細胞とヒトの脳細胞が持つ生理学的・薬理学的応答の根本的な違いにあった。

今や研究者は、性格や言語機能に障害が出る前頭側頭型認知症(frontotemporal dementia)や遺伝性自閉症の患者から皮膚細胞を採取し、多能性幹細胞へ初期化して脳オルガノイドを作製、それをマウスに移植することができる。生きている動物の体内環境において、特定の患者の細胞を標的とした新薬テストを行う手段を、科学界は初めて手に入れたのだ。

世界を征服するのか?:生命倫理専門家が引いた「行動」のレッドライン

マウスの大脳皮質の9割がヒト細胞に置き換わったというニュースは、当然ながら生命倫理の境界をめぐる大きな関心を呼んだ。ペンシルベニア大学の神経外科医H・アイザック・チェン(H. Isaac Chen)氏は、実験のヒト化の度合いが新たな高みに達したと指摘する。

倫理的な一線を踏み越えないよう、パシュカ研究室はシンガポール国立大学の生命倫理学者インス・ヒョン(Insoo Hyun)氏が率いる外部専門家パネルを招聘した。倫理委員会が示した明確な基準は、「動物がどれだけのヒト細胞を持っているかではなく、その細胞が動物の行動や認知能力を根本的に変えたかどうか」である。

緻密な運動能力および記憶力テストの結果、移植マウスのパフォーマンスは通常の健常マウスと皮質欠損マウスの中間に位置していた。普通のマウスを超える並外れた知能や高次な問題解決能力を発揮した兆候は一切確認されなかった。

研究チームがユーモアを交えて語るように、皮質の大半がヒト由来であっても、彼らは依然として普通のマウスのままであり、アニメの悪役のように世界征服を企む気配はどこにもない。

試験管と生体の間に横たわる深い溝を埋めるために、科学者たちは10年以上の歳月を捧げてきた。マウスの脳を削り、ヒト細胞を移植して皮質の9割を再構築したこの成果は、患者由来の細胞で難病を再現し、新薬の有効性を生体内で直接検証できる「生きたヒト神経モデル」の幕開けを告げている。

関連リンク:

  • Science News 報道
  • Nature 掲載論文